朝から雨、フランス第2の都市リヨン(マルセイユ人は自分たちこそ2番目と主張しているが)、「鏡と音楽」3日目、ぼくは今この公演について書こうとしている。
「鏡と音楽」という作品は、計11の場面から構成されていて出演者は7人、上演時間は1時間15分。
ぼくの作品の特徴は、我々のメソッドがそうであるように、形式的に振付を踊ることが主眼になく、瞬間瞬間に自らの工夫によってすべてが決定されるような作り方を基礎にしている。もちろん作品構成と展開は厳密に設定されていて、それを外すことは許されないのだが。
昨日の公演での各自の踊り方は、究めて明解に動きを追求した良いダンスだった。各場面が活き活きと生み出され、湧き出てくる流れが次の流れを生み、一人一人の身体の輪郭がくっきりした動きとなってダンスになるのだ。質が向上していることがわかる。舞台上での激しい行き来、高速度の滑走、静けさへの展開などが的確なタイミングで実行されている。各自の最大限のダンスへの試みは体力的な強度と柔軟性を素とし、音楽との調和を基調としているが、同時に身体全身がダイナミックに空間移動しグループとしての力が発揮されなければならない。それが明解に表れる時に場面として成立する。
また、聴こえるものと存在するもの(移動するもの)が共存するということ。ある時はノイズ、騒音に聴こえるノイズが、音楽になる。身体との関わり方によって変容するのだ。バロック音楽は、ダイナミックに身体を揺れ動かし、活き活きとした大きなうねりを生み出す。
とめどもなく発生する時間、ダンサーが生み出す時間。それらは身体的な葛藤の中に起こる。弛める身体、逆に体力的限界点でのコントロールが求められる。例えばスタミナとは必ずしも長時間での耐久性ではない。短時間でもスタミナは要求される。
別の局面では、「構成されない明解な瞬間を生む」希有なダンサーが現れる。佐東利穂子のあらゆる身体表面では、小爆発が高速度で繰り返される。それが他の身体に転位する。しかしダンサーそれぞれの身体には個別の質感があり、すこしずつズレる時間を生み出す。そこに公演の本当のスリルがある。全ては再生、再現ではない。その時のタイミングによって生み出される新たな時間的質感、新たな生命の流れだ。パフォーマンスが生み出されることを体験しつづけることがダンスになる。なされた動きが随時過去に残るのではなく、なされた動きは消えつづけ、それが軽やかに次の動きを生む。反対に重厚な質感が現れる。出現する時間、動きが時間の前と先を行き交う感覚がある。それがぼくにとってのダンスだ。ある場面で、ぼくの10分ほどのソロパートがあるが、そこでぼくは時間を生み、そこに乗り、また時間を作り替え、身体と時間とを遊ばせる。身体には固有の、その時にしかないという意味の固有の時間があって、それを正確に把握していないとその場面は成り立たない。それはとても軽やかで、息がつまるほどの圧力がはたらく。延長と短縮、凝固と溶解、身体が変化しつづける時間とからむ、身体が変容する、溶ける、ぼくは身体をそういうふうに遊ばせる、身体がぼくをつかまえては放り出す。時間に浮かぶ、空気におぼれる、呼吸が翼になり、ぼくは微かな自由を得る。勝手気ままに踊っている感じはない。ぼくには常に助けが必要で、その助けが呼吸だ。時間に縛られる時、ぼくは呼吸に助けられ、身体の重さによって空気に浮かばされ、ぼくは動きという音楽を聴く。空気と調和する呼吸という音楽、それがぼくを助けてくれる。そしてぼくは決意という感覚を得る。それはある種の感情で、強く明解な感情である。これをダンス以外で得ることはない。身体的感情だ。
公演は場面を変容させながら次から次へと流れとして進み、最後の長いジャンプのシーンになる。ノイズからメシアン、そしてバッハへ。延々とつづくジャンプ。ダンサーが一列に前後しながらジャンプしつづける。一人一人去り、消えてゆき、佐東利穂子と鰐川枝里が残る。ラストはダンサーたちの顔だけが光り宙に浮き、そして消える。暗転。観客がはじめからとても集中していて、我々が送り出すダンスを吸い込んで吸収している感覚になった。それほど積極的な観客だった。これはとてもうれしいことです。いい。ラストの暗転、静けさの波、微かな拍手、それがじょじょに大きくなり、手拍子になり、大きな歓声が鳴り止まず(男が多い)、何度も何度も繰り返される、呼び出され、劇場がひとつになる。こういう安易にきこえる表現はしたくないのだが。実際人々は個別に声を出し、大きな手拍子で賛辞をくれるのだ。劇場が大きく膨れ上がったようだった。
終演後、テクニシャンたちと挨拶をして荷物をまとめて外に出る。朝からの雨はまだつづいていて、吹きつける無数の冷たい粒が坊主頭にはじけて気持ちよかった。
勅使川原三郎