シアターΧ公演『ガドルフの百合』
開幕直前スペシャル対談(前編)

勅使川原三郎と佐東利穂子が、宮沢賢治の世界について思うことを、たっぷりと語っています。
 
IMG_8538のコピー
(C)KARAS
 
 
──宮沢賢治の『ガドルフの百合』は、激しい雷雨にあって空き家に逃げ込んだ旅人、ガドルフのある夜の体験
を描いた童話です。この作品のどんなところに惹かれたのですか。

 
勅使川原三郎 そこには若者の視線と、それをくつがえすような神秘的な、聖なるもの、賢治の場合は仏教なのでしょうか、そのような精神的根底のようなものがあり、人間の生き方を突き詰めようとするいっぽうで、そこから解放されたい、という思いもあって、そこがとても面白いと思いました。
宮沢賢治の世界は独特です。日本の中におさまらず、西洋文化のような風が吹いてきて、それを自分なりに捉えている。
だが、容易な迎合はない。それは時代の雰囲気や歴史的なものに迎合しないというか、ある意味で非歴史的。テクノロジーとか科学といったものを根底に持っていて、古いとか新しいとかではないことに焦点が合っている。それがとても面白いです。ガドルフというカタカナの名前も、非日本的でありながら、日本の土壌に合っているというか違和感がない。あるいはどこという場所ではない所を感じさせる。どこか物質的であり神秘的でもあります。
 
佐東利穂子 外国人の名前をたくさん使っているのに、外国の人という感じは一切しません。『銀河鉄道の夜』でも、カムパネラというイタリア人のような名前が出てきます。不思議な世界です。
  
──どの作品にも語感の美しさがあり、印象的です。
 
勅使川原 宮沢賢治の作品には、身体感覚に直接届く語感があらゆるところに散りばめられています。鉱石的というか、地面から掘り出した石とか、どこかから流れてきた光さえも、全部言葉で表されている。言葉の物質感がちゃんとあって、手に取れば、まるで、氷の星や赤く燃える星にかじかんだり火傷をするように、冷たさや熱さを感じさせてくれるのです。
また、東北、岩手の強い風にさらされている感覚が、どこでもないという距離感とともに描かれている。岩手という土地というよりも、現実の尺度を超えたスピード感のある空間。それは、体感する周辺を含む身体、という熱量を含む空間性なのかなとも思うのです。
今回の『ガドルフの百合』では、百合もそうですが、「曖昧な犬」というのも面白いですよね。さまざまなものに自分を投影して見ている。逆を言えば、「自分がない」ような感じがする。そもそもガドルフが「誰か」ということもはっきりわからない。
彼は向こうから来て、何かがあったのち、一直線に向こうへと行く。あっちへ行ったりこっちへ行ったりはしません。心象風景であるけれど、幻ではなく、実感する感覚が、作品の中に表れてくるような気がしています。実際に何かを掴んでいるとか、触れているとか、寒いとか、濡れているとか、ばたんばたんと音がするとか──それは夢かもしれないし、夢ではないかもしれない。もっといえば、自分の一生、生きていることも夢なのかもしれない。こういうふうに話していること自体、気が付いたら夢で。まだ覚めていないだけなのかもしれない。そんなふうにも思います。
 
佐東 その通りだなと思います。いま、目を閉じていたら、これがいつのことなのかよくわからない、という感覚を覚えました。宮沢賢治の世界は──昨夜は激しい雨が降っていて、その強い雨音がすごくきれいだったのですが、その感じに近い、と思うんです。突然どこからともなく訪れるもの。視覚的には、いつも霧を感じています。霧の中に表れた場所のような、どこだかわからない場所ですね。
 
 
後半へつづく。(後日配信予定)

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