「電気の夢」について
夢想についてのダンス作品、待つこと、求めること、そして心の手を伸ばすこと。今日が8回目の公演。どのようにダンスをするかはあるけれど、なぜはない。作品をなぜ作るのかはあるけれど、どのように作るかというのはない、とぼくは考える。甘い意味ではなく美しさを探している。しかしわかっている、どこを探しても、どこというところにあるわけではない。美しいとしか言えないものがあるなら、それを探したい、それがどこにもないなら自分で作りたい。それが夢想でもある。美しいものがなくても美しさはあるだろう。だから考え過ぎないこと。矛盾、、こう言いながら、いつも考えてしまうぼくはダンスを作り踊る。夢想から夢想へ。
勅使川原三郎

「電気の夢」の3日目。
一つ一つのシーンがより充実してきて、同時に繊細でいて確かな流れが新たに日々作られていっていることをダンスしながら実感する。音楽は終始繊細を極め、メシアンのオルガンからラヴェルのヴァイオリンとチェロ、そしてドビュッシーのピアノからヴォーン ウィリアムスのオーケストラ、再びメシアンという構成。照明は音楽以上に細やかに滑らかに展開する。それらの音楽と光の明暗の空間にダンサー2人が消えつつ現れる。現れて消える存在の確かさと不明さがこの作品の核で、正に無時間的空間が作る透明の彫刻と言えそうだ。夢想の数々は言葉ではなく、呼吸と動きと溶け合う。
つまりダンスが成す「詩想」そのものである。
勅使川原三郎


夢想の詩学から夢想のダンスへ
空想の実体 夢想の実体 夢想に現在も過去も無い
遠くからやって来る者がいる 別の名を風という
風が固まると言葉に成るが 風はそのまま音楽になる
言葉が溶ける 音楽が溶けると光になり色彩になる
同時に闇を作る 闇の保有者があなたでありわたしである
ドビュッシーからメシアンへ
夢想の坂道を下って行く休息する真実
朝 立ち去らない亡霊が道に迷って私と鉢合わせ
壁に立てかけられた床の夢 秩序ある高貴な夢の子供
緩んで垂れ下がる月 青く凍てついた太陽
宇宙の丸い沈黙が喉につっかかる 呼吸の夢 音楽
夢想する両性具有 夢を夢想する夢
勅使川原三郎

公演後、私が佐東利穂子について考えたことを記す。
この作品に現れた佐東利穂子は、成長した姿と技量によって、
いわゆるダンサーを超えた次元の表現者になっているのを私は見た。
柔軟に解体された身体の内側には、半透明の純粋の水液が流動しているようだった。
激しい悲劇的うごめきは、微細の振動から発していて、それが生命を維持している。
作品のあらゆる場面で、佐東利穂子は生と死に対して、崇高な問いかけをやめなかった。
それはどんな詩人にも書けない身体の詩篇であった。
美しいダンスとしか言いようがない。
彼女は全てを見て聴いていて、何も見えず聴こえない。
全てが佐東利穂子であり、佐東利穂子ではない。
それが、佐東利穂子のダンスである。
勅使川原三郎

「ソラリス」からの影響と別れ
原作のレムの小説、タルコフスキー監督の映画から離れて創作した、ソロダンス。
ダンスが生まれる空間を作り、文学や映像とは異なる方法によって、「ハリー」を出現させる。
佐東利穂子の特別な身体感覚が、愛と命を燃焼させるダンス。
この改作公演は、佐東利穂子と便川原三郎の新たな次元のダンス創作に重要な出発である。
内面の深みを極限までダンス的に追求する。
そしてここから新たな何かが生み出されるダンス、いや不可能な感覚表現に向かう
勅使川原三郎